【アラベスク】メニューへ戻る 第10章【カラクリ迷路】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第3節 幸せをあげるよ [9]




 女性用のシャンプーなどにあまり縁はないが、それでも、珍しい香りである事は瑠駆真にもわかる。自分を取り巻く女子生徒の中には、香水やシャンプーの匂いを撒き散らしながら近寄ってくる輩もいる。
 何だろう?
 水を止める瑠駆真の目の前に、ふと浮かび上がる柔らかな眼差し。
「霞流?」
 思わず言葉を漏らす。だが、なぜ今突然、その顔が現れたのか?
 わけも解らず眉を潜め、バスルームを振り返った。困惑と不安の入り混じった感情で扉を開け、シャンプーのボトルに手を伸ばす。
「この香り」
 呟く瑠駆真の耳底に、沁み込むような男性の声。

「良い香りですね」

 初夏の風と共に流れこむ爽やかな香りが、美鶴と霞流の二人を包む。陽射しを受けて少し汗ばんだ肌に、実に心地の良い、だけど少しだけ甘い風。
銀梅花(ぎんばいか)
 瑠駆真の声を掻き消すような別の声。

「美鶴ね、シャンプーの話題を持ち出すと、ほとんど必ず反応してくれるのよ」

 午後の授業に遅れまいと全力疾走するツバサこと涼木(すずき)聖翼人(えんじぇる)は、横を走る蔦康煕にそのような事を言っていた。
「シャンプー」
 突然、瑠駆真の全身に戦慄が走る。なぜだか、急に美鶴がどこか自分の手の届かない遠くへ行ってしまうような恐怖に襲われた。
 ダメだ。離れてはダメだ。
 瑠駆真はボトルを放り投げるようにして顔をあげた。足早に寝室を目指す。
 そもそも、僕はどうして今ここにいるんだ? 美鶴に話さなければならない事があったのではないか?
 そうだ、僕はどうしても今日中に、美鶴に逢わなければならなかった。逢って話さなければならなかった。そのために美鶴のマンションを目指し、傘を捜して駅裏を彷徨い、そして美鶴に出逢った。
 いつ話を切り出そうかと、そのタイミングばかりを計っていた。タクシーの中でも、部屋に入ってからもなぜだか自分を避けるような美鶴の仕草。どうしたのかと問えば過剰に反発してくるし、いきなりテレビを付けては見入ってしまった。
 体調が悪そうだった事もあり、瑠駆真は口を開くのを躊躇(ためら)っていた。
 でもダメだ。どうしても伝えなければ。今すぐ美鶴に、告げなければならない。
 そう思うと、瑠駆真の歩調はさらに早まる。なかば飛び込むように寝室へ戻ると、美鶴は膝を床に付けたままベッドにうつ伏せていた。そのすぐ傍に、瑠駆真も膝をついた。
「美鶴」
 至近距離で呼ばれ、美鶴は顔をあげた。先ほどまでの蒼白さはない。むしろ、顔を押し付けていたせいか、ところどころが微かに鬱血(うっけつ)している。
 だまったまま自分を見上げる美鶴の瞳を覗き込むように、瑠駆真は首を傾げた。
「美鶴、何があったんだ?」
「何もない」
 冷たく答え、再びうつ伏せようとする美鶴の顎を、瑠駆真は強引に捉える。
「この状況で隠すのはもうやめてくれ」
 焦りを滲ませる瑠駆真の言葉に、美鶴は半分諦めたように、だが半分は疲れたように小さく呟いた。
「お前には関係ない」
「何か辛い事があったのか?」
「別に」
「謹慎処分の事か?」
「違う」
「誰かに何か言われたとか?」
「そうじゃない」
 うんざりするように息を吐き、自分の顎を掴む瑠駆真の手を払いのけようと手をあげた。だが、美鶴の行動は間に合わなかった。それより先に、瑠駆真の唇が重なった。
 触れるような、淡いキスだった。
 力強さや激しさ、威圧感や服従を強いるような傲慢さもなかった。一瞬だった。一瞬で離れてしまったが、暖かみはちゃんと唇に残してくれる優しいキスだった。
 言葉を失ったまま唖然と見上げる瞳に自分のそれを重ね、瑠駆真は凛と澄んだ声で愛しい人の名を呼んだ。
「美鶴」
 そうして今度は両手で美鶴の両頬を包み込み、再び触れてしまうかと思われるほどの距離で囁く。
「僕と一緒にラテフィルへ行こう」
 意味がわからず呆気に取られる美鶴の表情が、瑠駆真にはとても愛らしく思えた。
「君を、幸せにしてあげる」





 気に入らねぇな。
 聡は重い足を引き摺るようにして自宅の階段を昇る。
 最寄の駅に着いた時、すでに雨は降り出していた。どうしようかと一瞬迷ったが、そのまま駅を飛び出した。息を切らせて玄関の扉を開ける。義父も母も仕事場である隣の会計事務所だろう。洗面所からタオルを引っ張り出し、しっとりと濡れて雨水を滴らせる髪を適当に拭った。
 何だって言うんだ。
 耳に響くのは、静かな声音。

「やめろよ」

 相手の言葉に臆するようなことなど滅多にない聡なのに、たったその一言が酷く重く聞こえて、返す言葉を失ってしまった。何を言われたのかしばらくは理解もできなかった。

「人の弱みを握って脅すか。やり方が卑劣だな」
「むやみに人を羞恥に晒すのはやめろ。見ていて腹が立つ」

 卑劣、だと?
 階段を昇りきったところで、聡はグッと拳を握る。
 緩のくだらない性癖を罵る俺と、美鶴にあらぬ罪を着せた緩。どちらが卑劣だと言うのだ。







あなたが現在お読みになっているのは、第10章【カラクリ迷路】第3節【幸せをあげるよ】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第10章【カラクリ迷路】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)